忌野清志郎デイドリームビリーバー~感動の秘話~

忌野清志郎デイドリームビリーバー~感動の秘話~

忌野清志郎

1951年4月2日
本名:栗原 清志
東京都中野区出身
2009年5月2日(満58歳没)

惜しまれながらも2009年にこの世を去った忌野清志郎さん。

たくさんの伝説を残している忌野清志郎さんですが、音楽番組では史上最悪の放送事故として知られる「FM東京事件」があります。

派手で破天荒でめちゃくちゃな事をしてる所が目立つのですが、実はすごく愛に溢れた人間味のある方なのです。

あまり知らない人からすれば野蛮なイメージばかりが先行してしまっているかもしれませんので、いくつもあるエピソードの中から忌野清志郎さんの人間性がわかる感動のエピソードをご紹介します。

 

音楽の道を進む清志郎。母親の心配は新聞記事にまで

清志郎さんが高校生の頃、大学に進学せずにギターのプロになると言い出しました。

母親の久子さんはそんな清志郎さんを心配して、朝日新聞の人生相談に投稿するのでした。

実際に久子さんが投稿された内容がこちら。

 

十八になる私の子供は小さいころから寝起きのいい方ではありませんでしたが、高三になってからは登校時間になっても起きず、遅刻はしょっちゅう、月に一日は休んでしまいます。私どもも口がすっぱくなるほどいい、先生から注意を受けましたが、相変わらず直そうとしません。性質は内向的でハキハキしませんが、お友だちには好かれているようです。高校を卒業したら美術大学へ入る予定でしたが、最近では進学したくないと申します。それと申しますのが、お友だちと三人で組んでギターをひき、自分で作詞、作曲したのをレコードに吹き込んだり、あちらのホール、こちらの放送局と時々出演して多少は受けているようです。

学校を休んだ日は一日中寝ております。こんな状態をくり返していては、心身ともにダメになってしまうのではないかと心配です。どうしても大学へ行かないのなら高校を出てお勤めをしてほしいと申しますと、お勤めなどいやだ、ギターのプロになるのだと申します。私どもには何が何だかわからなくなりました。プロには簡単になれるものでしょうか。学校へまじめに行かせるにはどうしたらよろしいでしょうか。(東京都・H子)

この投稿から久子さんはわが子を心配に思い、清志郎さんを改心させる為に何とかしたいと頭を悩ます優しい母親であった事は想像するに難くないですね。
こちらが羽仁進さん(日本の映画監督)の回答です。

お母さんの心配するお気持はもっとものようですが、よく考えてみると、十八歳というお子さんのことを、こうまでいちいち立ちいって心配されるのは、かえって甘やかしていることにならないでしょうか。十八になれば、だれでも自分の将来のことを考えるでしょうし、ギターなど才能を要し、しかも職業としては人気を要するものを一生の仕事としてえらぶには、お子さん自身不安があるにちがいありません。それをお母さんが、先に立って口うるさく言いすぎては、お子さんが自分を見失ってしまうおそれがあります。

ズルズルとこれで終始するよりは、思いきってある期間をお子さんに与え、好きな道で努力してみて、それがだめなら、先生や親の指示に従うとか、あるいは自立するとか、決断させてみるのも、ひとつの方法ではないかと思います。

 

そしてこちらが羽仁節子さんの回答。(日本の教育評論家で羽仁進さんの母親)

「口がすっぱくなるほど」とおかきです。それからそれと拡大文句は逆効果。ギターをやめろではなく、ギターにうちこんでいくには、いざというときの経済的社会的バックをつくっておかなくては心配だから、とにかく大学だけは出ておいてとそれだけにしぼって、折りをみては親の希望をのべる。私の知人の息子、やはりギターにこり、友だちをさそっていわゆるプロに近いところまでゆき得意でしたが、流行のはげしい世界でおもうようにゆかなくなり解散。中学の教師になりました。生徒ともうまくゆき、教師生活に打込んでたのしそう。若いときの経験が、苦労が生きています。

久子さんの人生相談の投稿からは清志郎さんを思うがあまりに、心配でいてもたってもいられないといった印象を受けますが、清志郎さんがロックミュージシャンとして大成された事が全てを物語っているように思えます。(色々あったかとは思いますが、、)

 

母親の死、そして父親からの衝撃の告白

久子さんは病に倒れてしまい、6年間の闘病の後1986年に亡くなられました。

更にそのタイミングでお父さんから衝撃の告白がありました。

「俺は本当の父親ではない」

そして今まで母親だと思っていた久子さんも実の母親ではありませんでした。

清志郎さんが当時3歳の頃、産みのお母さんは33歳の若さで亡くなられています。

育ての母の久子さんは清志郎さんの実母(富貴子さん)の姉で、伯母夫婦の養子として引き取られていたのでした。

真実を打ち明けた継父も久子さんが亡くなられて2年後に亡くなられました。

 

その後を変えた3冊のアルバム

育てのお父さんが他界してから数日後、親戚のおばさんが「清志ちゃんが持ってた方が価値あるよ」と3冊のアルバムを持ってきました。

アルバムの中身は実母、富貴子さんの写真や手紙、短歌等がありました。

そして清志郎さんのノートには「HAPPY」と題され、その時の心情が記されていた。

わーい、ぼくのお母さんて こんなに可愛い顔してたんだぜ こんなに可愛い顔して 歩いたり、笑ったり、手紙を書いたり 歌ったり 泣いたりしてたんだね

37年近く生きてきて とにかく初めての気持ちなんだ とっても幸福な気持ち だけど、涙がどんどん出てきちゃうのさ 気がつくと、ぼくの目に涙があふれてる 涙が流れ落ちるんだ その可愛い顔が見えなくなっちゃうんだ

清志郎さんは、富貴子さんの笑顔の写真を服のポケットに入れて持ち歩いていたそうです。

ノートには「いつも恋人といっしょだ」とあり、実母を「彼女」と呼んでいました。

 

こちらは親戚のおばさんが語る富貴子さんのエピソード

「30過ぎても、当時の人が着こなせないような、赤や緑の服を平気で着ちゃうような人でね…。いつもおもしろい事を言って、みんなを笑わせてね、歌が好きで、とても上手だった。そうそうレコードもあるんだよ。死ぬ少し前に録音してね、死んでからレコード盤にしたんだよ」
いかにも清志郎さんのお母さんといった印象ですね

からすの赤ちゃんとデイドリームビリーバー

ノートが書かれたその年の末に発表されたアルバムには「からすの赤ちゃん」という楽曲が収録されていました。

これは富貴子さんが生前にレコードに吹き込んだ歌でした。

その翌年に発表された曲が「デイドリームビリーバー」

そして1994年にリリースされたベストアルバム『MAGIC – KIYOSHIRO THE BEST』(マジック - キヨシロー・ザ・ベスト)のジャケットがこちらです。

 

清志郎さんの隣に写る笑顔の女性、、もうおわかりですね。

 

 

 

忌野清志郎

デイ・ドリーム・ビリーバー

 

もう今は 彼女はどこにもいない 朝はやく 目覚ましがなっても

そういつも 彼女とくらしてきたよ ケンカしたり 仲直りしたり

ずっと夢を見て 安心してた 僕は

Day Dream Believerそんで 彼女はクイーン

でもそれは 遠い遠い思い出 日がくれて テーブルにすわっても

Ah 今は彼女 写真の中で やさしい目で 僕に微笑む

ずっと夢を見て 幸せだったな 僕は Day Dream Believer そんで 彼女はクイーン ずっと夢を見て 安心してた 僕は Day Dream Believer そんで 彼女はクイーン Ah Ah Ah Ah Ah Ah Ah Ah

ずっと夢を見て いまもみてる 僕は Day Dream Believer そんで 彼女はクイーン ずっと夢を見て 安心してた 僕は Day Dream Believer そんで 彼女はクイーン ずっと夢見させて くれてありがとう 僕は Day Dream Believer そんで 彼女がクイーン

 

▲公式のものだと高畑充希さんが歌う「デイドリームビリーバー」がありました。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA